ルシアンはパイプの煙をくゆらせながら、記憶の断片を探るように虚空を見つめた。「いや、老婆ではなかった。若い女が一人いたが、あれは戦士ではない。どこにでもいる普通の娘に見えた。しかし目は違ったな。本心を語らない人間の目。奥に何か隠しているような目だ。あれは何か裏がある」 ルシアンは煙をゆっくりと吐き出し、視線を遠くへと向けた。「鉱石のことをしつこく聞いてきたよ。俺は何も話さなかったがね」 リノアとエレナは互いに顔を見合わせた。グレタではない……? グレタ以外に鉱石を追っている者がいるとすれば……。クローブ村や集落の周辺で見かけた、あの人影たちしかいない──「その人たちはどこへ向かったのですか?」 エレナが尋ねた。 ルシアンは桟橋の手すりに軽くもたれ、遠くの水面を見つめながら答えた。「さあ、どうだろうな。あの様子じゃ。フェルミナ・アークだろうがね。単なる探究心ではないのは確かだ。目的は原生林にある鉱石だろう」 潮風が霧を揺らし、夜の気配が深まっていく。 リノアは、ゆっくりと息を吐いて拳を握りしめた。──これ以上、自然を壊させはしない。 その想いは静かに燃え、決意となってリノアの瞳に宿った。深まる闇の中、霧の向こうで小舟が緩やかに揺れている。まるで、新たな選択を待っているかのように—— 敵はすでに動いている。私たちも急がなければならない。「何のためにそこへ向かうのかは分かった。しかしだな……あの場所は危険なんだ。戻って来れるとは限らない」 ルシアンはリノアとエレナを見て言った。ルシアンの表情は険しく、瞳の奥に警戒の色が滲む。「それにラヴィナは忙しいんだ。会えないかもしれないぞ。普段なら舞踏会を楽しみにしているが、今はそれどころではないからな」 ルシアンはわずかに目を細め、遠くへと視線をさまよわせた。その表情には過去をたどるような微かな陰が差している。「それでも行かなければならないんです」 リノアは一歩前に進み、胸元のペンダントに手をやった。リノアの声には揺るぎがない。 ルシアンは腕を組み、険しい表情を崩さぬまま、リノアたちをじっと見据えた。 夜風が霧を揺らし、波間に小舟が静かにたゆたう。桟橋に沈む夕闇が水面に映る揺らめく灯りと溶け合っていく。 リノアが動くたび、胸元のペンダントが揺れてオレンジ色の光が淡く乱反射した。「そ
広場の片隅で寛いでいた時、リノアとエレナの元へ一人の男が近づいてきた。「君たちは酒場に来ていた子たちじゃないか?」 リノアとエレナはゆっくりと顔を上げ、男の方へ目を向けた。「ええ……そうですけど」 リノアは答えながら姿勢を正した。エレナも背筋を伸ばし、男の表情を慎重に読み取ろうとしていた。「ルシアンだが、君たちを探しに行ったぜ。たぶん桟橋に向かったんじゃないか」 リノアは反射的にエレナと目を合わせた。 広場で過ごした時間は束の間の休息だった。それが終わると決まった瞬間、胸の奥に眠っていた旅の緊張感が再び目を覚ます。 リノアとエレナはゆっくりと立ち上がった。 運河を渡る風がひんやりと頬を撫でる。 夕陽が運河を照らし、空の朱色が深まっていく中、リノアとエレナは男に礼を言って、桟橋の先に待つ人物を想像しながら歩みを進めた。 街の灯りが水面に映り込み、揺れる波と共に滲んでいる。夕空は淡い橙から深い紫へと変わり、街はゆるやかに夜へと移ろうとしていた。 静かに流れる風が柳の枝を揺らし、運河のほとりを冷やし始める。桟橋へと続く道の先には潮の香りと共に、どこか懐かしさを感じさせる空気が漂っていた。 足元の木板は古く、踏みしめるたびにわずかに軋む。その先には煤けたパイプをくゆらせるルシアンの姿があった。 桟橋に絡みつく薄い霧がルシアンの影を揺らめかせている。過去と現在の狭間で蠢いているかのように──「遅かったな」 ルシアンは言葉と共に、ゆっくりとパイプを口元から外した。潮風が微かに煙を攫い、夜の帳へと溶かしていく。 長年、海を渡り続けた者だけが持つ深み──複雑な色をした瞳をしている。「目的地はフェルミナ・アークか。女の子二人とは珍しいな。どうして、あの場所に行きたいんだ?」 リノアは潮風を吸い込み、視線をルシアンに向けた。「フェルミナ・アークで知りたいことがあるんです」 リノアの静かな語調に、エレナも続く。「自然破壊を止めるには、どうすれば良いのか。それを知ることが目的です」 エレナは慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。「ほう。それで?」 ルシアンはわずかに顔を傾け、視線を遠くへ向けた。 水面には夕陽の名残が映り込み、金と青のまだら模様を描いている。波が揺れるたびにその色彩が変わった。 リノアは一歩進み、真剣な眼差し
夕方にはルシアンが帰ってくる——それまでの時間、リノアたちはアークセリアの街並みを見て回ることにした。 陽の光が傾き始める頃、石畳の路地には行き交う人々のざわめきが響いていた。露店の店主が声を張り上げ、街角では旅人たちが談笑している。 通りを抜けた先に小さな広場があり、楽師たちが集まって演奏をしていた。 弦の音が軽やかに舞い、打楽器の深い響きがそれを優しく支える。その旋律は風に乗り、広場にいる人々の心をゆるやかに包み込んでいった。「クローブ村とは全然違う……この街はどこか不思議な魅力があるね」 エレナが感嘆の声を上げ、広場の中央に設けられた長椅子に腰を下ろした。リノアもその隣に座り、奏でられる音色に耳を傾けて、エレナと一緒に街の風景をゆっくりと眺めた。 広場の一角には屋台が並び、焼きたてのパンやこんがりと焼かれた肉の串が湯気を立てている。「せっかくだし、何か食べようか」 エレナが目を輝かせて立ち上がり、期待に満ちた表情で屋台へと足を向けた。 二人は並んだ料理の数々をじっくりと見定める。「あの焼きキノコ、いい香りがする。あっちのスパイス煮込みも美味しそう」 スパイスの香りが鼻腔をくすぐる。 迷うリノアをよそにエレナはすでに決めたようで、屋台の主人から勧められた果物の包み焼きを手に取っている。「それ何の果物? クローブ村にはなかったよね、そういうの」 リノアが興味深げに尋ねると、エレナは包みを開きながら肩をすくめた。「うーん、なんだろ。分かんない。でも、こういう甘みのある料理、好きなの」 その言葉の通り、エレナは迷いなく一口かじり、幸せそうに目を細めた。 リノアもその様子につられ、ひとつ注文してみることにした。 香ばしい生地の中から、煮込まれた果物の甘みがじんわりと広がる。初めて口にする味にリノアは満足げな表情を浮かべた。 広場の楽師たちの演奏が風に乗って流れ、夕暮れの空が柔らかな金色に染まっていく。 この街は旅人の心を穏やかに解きほぐす。そのような場所なのかもしれない。 夕刻までのひととき——ルミナス島へ向かう前の最後の静かな時間だ。 この穏やかなひとときが終われば、旅は新たな局面へと進む。 夕暮れがゆっくりと訪れ、空が淡い紫に染まる頃、二人は、この静かな時間を味わいながら、次なる旅路へと思いを馳せた。
二人が次に向かった先は武器屋だ。 ルミナス島へ渡るためには、しっかりとした装備が必要になる。 古びた石造りの店の扉を押し開けると、中には整然と並ぶ剣や短剣、弓が光を放っていた。 店主は鋭い目を持つ壮年の男で、二人が入るとゆっくりと顔を上げた。「旅の支度かい? なら、しっかりしたものを選びな」 店内の奥へ進むと、武器棚の隣に整然と鉱石が並べられていた。「武器屋なのに鉱石……?」 磨かれた黒曜石や、わずかに輝く雷光石、深い青を宿した魔鉱石——これらは一体、なんだろう。 リノアは息を呑んだ。「勿論、普通の鉱石じゃないぜ。その鉱石自体に特殊な力が秘められているんだ」 リノアは鉱石の並ぶ棚を眺め、指先で「凍結の晶核」をなぞった。 その冷たい輝きが霧の深い森での戦いに役立つことを思うと、自然と唇が引き締まる。「その『凍結の晶核』は特殊な鉱石だ。霧の中で振動を与えると、一瞬で周囲の水分を凍らせる。足場を作ったり、敵の動きを封じたりとな。昔、寒冷地の戦士たちはこれを罠として活用していたそうだ」 リノアの脳裏に霧深い森の情景が浮かんだ。視界の悪い中で敵の足元を瞬時に凍らせることができれば、戦闘の流れを大きく変えられる。ただ霧に惑わされるのではなく、その霧を自分の武器として活かすことができるのだ。「この『凍結の晶核』、弓矢の矢尻としても使える?」 エレナは鉱石をじっと見つめながら、店主に尋ねた。「可能だ。少し手を加えるだけで誰でも矢尻にすることができる。特別な技術は必要ない」「遠距離からも狙えるなら、かなり使えそうね」 エレナは呟き、鉱石の重さを測るように手のひらで転がした。 弓の扱いには慣れている——この鉱石の特性を活かせば戦術の幅が広がる。霧の中で冷気を操ることで、戦局を有利に導けるはずだ。 エレナは鉱石の活用方法を思案し、満足げに頷いた。 リノアは隣に並んだ『水影石』も手に取った。角度を変えて光の反射を確認する。「それは水を反射して、視界を奪う鉱石だ。光の屈折を利用して姿を隠すだけではなく、幻影を生み出すこともできる優れものだな」 リノアとエレナは互いに視線を交わし、その利便性を確かめるように頷いた。「これはどうだ? 一定の光を蓄え、暗闇で瞬間的に発光する。動物の目をくらませるのに、探検者たちが良く使っているものだ」 店主が手
「この後、どうしようか?」 リノアが湖面を見つめながら言った。 ルシアンを待つ間、時間を無駄にするわけにはいかない。 エレナは少し考え、視線を街の方へ向けた。「時間もあることだし、道具でも揃えない? この街に何があるのか興味があるし」 エレナの言葉にリノアが頷き、二人は路地に入って行った。 石畳の路地は狭く、両側に古びたレンガ造りの建物が立ち並んでいる。壁には蔦が絡まり、窓辺には色褪せた木製の看板が揺れていた。 市場の活気は、ここにも溢れている。商人たちの声が響き、革の袋に詰められた香辛料の香りが微かに漂う。 リノアとエレナは時折、足を止めて、並ぶ品々を見定めた。 鍛冶職人が鉄を打つ音が遠くで聞こえ、パン屋の店先では焼きたての香ばしい匂いが満ちている。 どこか時間の流れが違うような、そんな空気がこの路地にはあった。二人はその雰囲気を味わいながら、必要な道具を探し求めた。「ルミナス島へ行くなら、これも必要じゃない?」 エレナが指さしたのは、特殊な防水布。湖の湿度が高いため、荷物を守るのに適している。 リノアがふと足を止め、店先に並ぶ奇妙な道具に目を留めた。「これ、何だろ」 リノアの視線の先に『ルミナスの祓石』がある。「はらい石?」「ああ、それはね。湖の湿気が濃い時、この石を振ると周囲の霧を払うことができるんだ。船乗りたちに重宝されてるよ。霧を散らす銀の石だね」 店主は誇らしげに説明した。 リノアは慎重に『ルミナスの祓石』を手に取る。 その表面には細かい模様が刻まれていて、ひんやりと冷たい感触があった。「きっと霧が深いだろうからね。何かの役に立つんじゃない?」 エレナの言葉にリノアは満足そうに頷き、さらに役立ちそうな品を探した。 リノアとエレナは店内をゆっくりと歩きながら、興味深げに棚を眺める。「これは……?」 リノアが手に取ったのは、『月光草の乾燥葉』「それは夜間に光を反射するものだ。薄暗い場所で目印に使うと良いよ」 店主の言葉にエレナも身を乗り出し、葉の質感を確かめた。「この葉は、どれくらいの時間光るのですか?」 エレナが訪ねた。「月光草の乾燥葉は光を蓄えてから約三時間ほど輝きを保つ。ただし、光の強さは時間とともに弱まるから、補助的な光源として使うのが良いだろう」 店主は落ち着いた口調で説明した。「三
酒場へ続く道は、人々の活気で満ちている。 港のすぐ近くに位置するその酒場からは、潮の香りとざわめきが入り混じった喧騒が漏れ出ていた。 中から響く杯の音と豪快な笑い声——それはリノアとエレナにとって慣れない空間だった。 二人は扉の前で立ち止まり、お互いに目を合わせると、意を決したように扉を押し開けた。 ざわめく会話と木製のカウンターにぶつかる杯の音が耳に届く。 リノアはまっすぐ店主の元へ向かった。「ルシアンという人を探しているのですが……」 カウンターに立つ店主にリノアが尋ねると、彼はグラスを拭きながら眉をひそめた。「ルシアンか……。いつもならこの時間に顔を出すんだがな。まだ今日は見ていないな」 エレナはゆっくりと店内を見渡し、賑やかなテーブルに座る船乗りたちへ視線を向けた。「誰か、ルシアンがどこにいるか知りませんか?」 すると、奥のテーブルに座っていた初老の船乗りが、杯を傾けながら顔を上げた。「今日は遅れると言っていたよ。誰かと会うらしいが、詳しいことは知らん……。最近、何かと忙しそうでな。『潮の流れが変わった』なんて話をしていた時、妙に考え込んでいたのが気になったが……。夕方には来ると言っていた」 リノアとエレナは顔を見合わせた。「リノア、どうする? 夕方だって……」 今すぐルシアンに会えない以上、次にできることは限られている。 リノアはエレナと視線を交わした。 これ以上、ここにいても有益な情報は得られそうにない。「ありがとうございます。夕方にでも、また来ます」 そう告げると、二人は席を離れ、店の出口へ向かった。「ルシアンに伝えておくよ。女の子たちが探してたって」 初老の船乗りが、背中越しに言った。 リノアとエレナは足を止めて、彼に軽く礼を述べた。 扉を押し開き、二人は酒場を後にする。 酒場を出た瞬間、リノアは軽く目を細めた。外の光が思った以上に強い。「ルシアン、誰と会っているんだろうね」 リノアが呟く。 リノアは潮風を感じながら、エレナの言葉を待った。「ルシアンが誰かと会っている理由……そんなの、いくらでもあるんじゃない?」 エレナは軽い口調で言った。しかし、その目は真剣そのものだった。 エレナの思考はふと、ある一点に向かった。エレナがじっと水面を見つめている。 風が頬を撫でると、エレナは髪をそっ